(18)の手帳 うるかのいままで

(18)の手帳 うるかのいままで

みなさんいつもありがとうございます。
 
いつもは潰瘍性大腸炎の事やパニック障害、ひとり旅のこととか普段の生活で思っている事とかを書いていますが、今回は昔書いてた日記と手帳を読み返して、あの時の私の思っていた事と今の自分のことをざっくりと書いてみようかと思いました。

私の人生のターニングポイントは何度かありますが、
大きいのは父の死、それによる影響を受けた小学生の時の生活。
18歳の時に書いた手帳、海外での生活、バックパッカー、持病の発覚。
そのことを主に書いていこうと思います。

 

TwitterでのフォロワーさんはTwitterでの関りがほとんどなので、
いつも”うるか”とはどんな人なのかと思っている方もいるかもしれないですね。
Twitterだけだと文字の制限で多くを語る事ができないです。
なのでこちらにもう少しうるかのことを書こうかと思いました。

人生は一度しかないし自分がやりたい、見てみたいと思ったところには行ってみる。
これがうるかの信念。

小学生のうるか

私の人生観が変わったのは小学生の低学年の時。
3年ほど闘病した父が癌によりこの世を去った。
あの時の事は今でも忘れられないし、たまに今でも夢にも出てきて泣いて起きることだってある。

あの時に人はいつか死ぬ。死というものはいつかやってくるものだと子供ながらに強烈に思うようになった。

普段は何も考えずに生きていたけど、死というものを意識することになり、子供としては冷めた考え方になったのかもしれない。

私は父が好きだった。
姉や兄もいるが歳が離れていて私は末っ子として可愛がられて育った。

父は色んなところへ車や電車で連れて行ってくれて、その度に地図で道を調べるので、私も自然と地図が大好きになった。
小学生の時はお小遣いを貯めて、東京、大阪、名古屋などの道路地図を買ったり、日本地図、そして世界地図をみたり、市町村や人口、名産品などをみるのが小学生の当時の私の趣味。

だから桃鉄は強かった。桃鉄に出てくる駅は目的地以外の所でも全部私にとっては有名な地名しかなかったから。
漢字もほとんど都道府県や市町村の地名で覚えた。だから、その他の漢字は今でも苦手。。。

父もまだ幼い私に大人が見る少し難しくて分厚い世界地図を買ってくれて、私はそれをずっと大切にして、寝る前に何度も見て自分の知らない世界に興味を強く抱くようになった。

父は一眼カメラが好きだった。
その影響は姉にも私にも与えていた。
だから、今でも一眼カメラが好きだ。
上手い上手くないは別として写真を撮るのは大好きです。

そんな父が亡くなり私はしばらく呆然としていた。
あの当時はショックのあまり涙なんて出なかった。
一度も泣いてないのは覚えている。


小学生の子供って時には残酷。

『お父さん死んだとき泣いた?』
『私のお母さんがうるかのお父さん死んで可哀想だから遊んであげてって言ってたからあそぼ。』

彼等は全く悪くない。
子供だから悪気がない。
でも、そこには触れないでと思っていた。

やっぱり子供ながらに傷付く。。
そして、近所を歩くのもしばらく嫌だった。
可愛そうにみられるのがたまらなく嫌だった。

でも、家族を養っていた父がいなくなり、一番大変な思いをしたのは母。
私たちを食べさせるために49日が済んで落ち着いてからフルタイムの仕事をはじめた。

朝は私が母にいってらっしゃいと言って見送り、姉も兄もそれぞれ出て最後に私が鍵を閉めて家を出て小学校へ。

姉や兄も大学生や高校生だったから夜もバイトとか部活で遅くなる。
母も残業はあまりないとはいえ帰宅するのは19:00過ぎてからだったから、私が家に帰ってくるのが一番早い。

家に帰ってくるのが一番早いからいつも洗濯物を取り込んでいた。

夏は17:00で冬は16:00ぐらい。
ちゃんと乾いて家に入れても大丈夫な時間帯。
雨の日はそもそも外に干してないから時間を気にしなくてもいい。
この時間に間に合うように小学校を出ていた。
学校に残って楽しそうな友達がいても、

『私は洗濯物を取り込まないといけないからいったん帰るね。またあとでね』

このフレーズは何百回言ったことだろう。。。

でも、高学年になってくるとそこも理解してくれる優しい友達もいた。
一緒に私の家まで帰ってくれて一緒にみんなのところに戻ってくれるそんな優しい子。

今でもあの時に一緒に帰ってくれてた子には感謝の気持ちでいっぱいです。

最初は洗濯物を取り込むぐらいしかできなかったけど、後々にお風呂掃除やトイレ掃除なら子供の自分でもできた。

いったん家に帰ってからは、夕方までは誰かと遊ぶような普通の子供の生活。
18:00には帰らないといけないと言われていたので、その時間までにはちゃんと家に帰るようにしていた。
ただ、家に帰ったところで誰もいない暗い部屋。
それでも、誰もいないのはわかっていても
”ただいま~”は必ず言っていた。

それは一人で暮らしている今でも同じ。
家に帰ってきたという切り替えのためにもなる。

やっぱり育ち盛りなのでおなかはすく。
母が帰ってきたら晩ご飯の支度をすぐにしてくれた。
とにかく早く食べたいという気持ちが強かったからかな。
お皿を並べる、盛り付けるぐらいの簡単なことをして少しでも早く食べたいと思っていた。

基本的につまみ食いとかはダメで、しっかりとお皿に盛り付けてからいただきますをする。
兄も姉も帰ってくるのは遅いから、平日の夜はいつも母と二人。

でも、仕事で疲れていただろうけど嫌な顔は一切見せない優しい母。
いつもおいしいね、おいしいねとにこにこと二人で食べていた。


次第にもっとご飯が早く食べたいという気持ちと、母を手伝いたいという気持ちにより、野菜を切るところから教わった。卵を焼いたり、ただ炒めるだけぐらいならそのあとすぐにできるようになり、包丁を使うことは全く怖くなくなった。

だから、小学生の頃の家庭科は得意だった。裁縫は苦手。。。だけど。

母は土日祝は休みの仕事をしていたので休日は家にいてくれた。
父みたいにいろんな知らないところへ連れて行ってくれるわけでもなかったけど、
一緒に買い物に行ったり、料理を教えてもらったり、父のお墓参りに行ったり。

私の方が地図を見るのが得意なので、たまにのドライブは私が道案内をしながらいろんなところに行った。
姉と兄はもう大きかったのでそれぞれの好きな事をしていたし、父の時と同じく出かけるときは二人きり。

2年ほどすぎてから母の仕事も落ち着いてきたので母と二人で旅行に行くようになった。

でも、そんなある日、いつもの時間になっても母は帰ってこなかった。

なぜか近所の母の友達であるおばちゃんが晩ご飯の支度をしてくれたりした。
少ししたらお母さん帰ってくるからねと言われたけど、そんなことはなかった。

翌日から親戚の人が来たり、近所の人が来たりするようになった。
なんかこの感じ前にも見たことがあるな。。。
父が亡くなる少し前もバタバタとしていたあの時のようだ。

とてつもない絶望感だった。

父が亡くなって2年弱。わたしはまだ小学生の高学年。
父の次は母までも失うのか。。。
私はなんで私だけとずっと泣いていた。

数日してなぜ母が帰ってこないのかわかった。
理由は帰宅途中に交通事故にあったらしい。
命に別状はないがひどいケガでしばらくは入院しないといけないということだった。
肩の骨が特に酷く折れて手術をしないといけないらしい。

それから一か月。
久しぶりに母と再会した。
ギプスをして痛々しい見た目だったが、母が帰ってきた。
私は心の底から喜んだ。
もう死んでしまうものだと思っていたから本当にうれしかった。

『死なないよね?死なないよね?』

何度も母に尋ねた。
父のことがあるからとんでもなく不安だった。

母は片方しか手を動かすことができなかったから、ご飯の際は私が食材を切ったり、炒めたりして母は私に対して支持をしてくれて料理をしていたのは今でも覚えている。
あの時でまた少し料理スキルが上がったかな。

そんなのもあって、簡単な料理とか洗濯とかは周りの友達よりも早いうちからできていたと思う。

そして、このまま夢見るかわいい子供ではなく現実的な感じの冷めた中学生になった。
とはいえ、イルカの調教師になりたいなぁとは心の片隅にありました。

中学生のうるか

中学生になったうるか。

私は部活はテニスをしていた。
帰宅するのは少し遅くなるぐらいで、基本的な生活はあまり変わらなかった。

でも、不眠症に悩まされる。
授業や部活で疲れて寝たいのに眠れない。

毎日あと何時間寝れるのだろう。。。
今何時だからあと何時間で起きないといけないな。。。
起きる時間を逆算して布団の中でもがいていた。

考えれば考えるほどプレッシャーで眠れなくて、一睡もしないで学校に行くこともあった。
あきらかにストレスがあったが、自分で気付かないふりをして目をそらしていた。
だから、眠れない事なんて大したことないと軽視していた。


金縛りにある日も多かった。
でも、それも疲れによるものだとわかってた。だから、心霊体験とかそういう風には思わなかった。

中学生の時のことは、本当に不眠で眠れなかったイメージが強く残っている。

今だったら母に相談して心療内科を受診していたんだろうけど、当時の私は病院に行くほど大したことではないと思って気にしないようにしていた。

なにより病院は父が死んだ場所というイメージが強く、そのトラウマでどの病院でも近寄りたくないと思っていた。

私が中学生の頃は姉も兄も就職して家にはいなかった。
だから、ほとんど母と二人。でも、兄弟仲は今でもいい。
父を亡くしたことが大きいのかなと思う。

みんなで助け合おうという感じで父が亡くなる前よりも家族仲はよくなった。
元々家族仲はよかったけど、それにも増してよくなった。

みんな母を悲しませたくない気持ちがあるのはよく伝わる。

私はもう父には何も親孝行ができないから。
父には好きだとかムカつくだとか良いことも悪いことも直接言えないから。
結構厳しい父だったので怒るとめちゃくちゃ怖かったから生きていたらすごく怒られていたかも。
でも、色んなところに一緒に行っていたと思う。

だから、家族にはご飯がおいしいとか、いつもありがとうとか、声に出して素直に言えるようになった。

高校生のうるか

高校生になったうるか。

高校生になった私も似たような生活。
少し見た目が派手になったぐらい。

相変わらず地図が大好きで海外にも興味をもつようになっていた。
アメリカのドラマで見た西海岸の海辺を歩きたい。
中国の歴史ある庭園をゆっくり散歩したい。
ヨーロッパの歴史的な建造物を自分の目で見てみたい。

そして、韓国の文化にも興味を持つようになった。K-POPもそのころに聞くようになった。
当時はやっていた曲ではないけども、
GODというグループの『길』(道)という曲が私の心を突き刺した。

私の心をいつも励ましてくれてた。

ひとつの曲でこんなにも気持ちがかわることもあるんだなと思うぐらい衝撃的だった。
今でもよくきいている曲。

当時はまだハングルも読めない、韓国語もわからなかったので、日本語に翻訳してくれるサイトで歌詞を見て、
いつかこの曲を日本語訳もなしに韓国語をそのまま自分で理解して受け止めたいと思った。

高校の時にどうしても韓国旅行したいとお願いして、母と姉と3人で行ったのが私のはじめての海外旅行。

そこからは海外にずっと興味を持つようになり、いつか韓国留学に行こうと思った。

ちなみに、ひとり旅は高校生の頃から日本各地に行くようになって、青春18きっぷとか使って安く行ってた。

もし父が生きていたら心配して反対されただろうな。
母は心配はするけど自分がしたいなら気をつけて行ってきなさいと言ってくれてた。

父が亡くなる前もたくさん旅行したし、母とも二人で色んなところ行ったし、ひとり旅でも色々と周遊していたから、若いのに日本国内はたくさん旅行していた方だったと思う。

父が亡くなっていつか死ぬものだと思って生きてきたから、少しだけ開き直ってるのか、自分がやりたいと思った事に対して素直に生きる事にした。

私は要領も悪いし集中力が続かなかったり記憶力もよくないのわかってるから、
手帳を買って自分がしたいと思ったことをとりあえず書いてみた。
それが叶うかどうかはわからない。
でも、とりあえず書いていたら少しだけ意識して生きていけるかなと思ったの。

18歳の時に書いた手帳。

今でも大事な手帳。。。

(18)の手帳

ここにはこれからしたいことを書いた。

小さい目標から大きい目標まで。
その当時の私が思った事だから、結構ざっくりと書き過ぎていたかもしれない。
でも、それは私が素直にその時思った事。

  • 20歳までに世界5大都市を自分の目でみたい。
  • 30歳までに47都道府県全部行きたい。
  • 40歳までに47都道府県の全県庁所在地に行ってみたい。
  • 父の供養のために西国33か所のお寺の御朱印をもらってから善行寺参りと高野山をお参りする。
  • 韓国語が話せるようになる。
  • 英語が話せるようになる。
  • 数年でいいから英語圏で生活してみたい。
  • 野球のメジャーリーグを生で観戦したい。
  • バックパッカースタイルのひとり旅がしたい。
  • 世界中の水族館を巡りたい。
  • キューバに行ってみたい。
  • めっちゃきれいな海でのんびりしてみたい。
  • アメリカの西海岸でビーチをのんびり歩いたり夕陽が見たい。
  • 少数民族に会ってみたい。
  • インドのバラナシに行って死について考える。
  • 外国人の友達を作りたい。
  • アメリカでおなかいっぱいハンバーガーを食べてみたい。
  • インドで本場のカレーが食べてみたい。
  • 陸路で国境をまたぎたい。
  • アンコールワットで朝日を見てみたい。
  • 本場の中華料理を食べてみたい

こんな感じでスケールが大きいのか小さいのかわからないけど、18歳の自分がこれから先の人生叶うかどうかわからないものをとりあえず手帳に書いてみた。

でも、これを作ったことで自分がしたいことが明確になってそれをするためにお金を貯めたり勉強したりすることができた。

ただ行きたいとか見たいとか食べたいとかそんなことばかりだけど、18歳の私にはそれが本当にしたいことだった。

その手帳はなにかあった時にみて、自分が何がしたくてどこに行きたいか考えた。

その後は進学して、2年目の時に1年間韓国に留学して、卒業後は就職して。

よくある新入社員からのスタート。
でも、私は決めていたことがある。

どれだけいい職場だとしても、安定してる会社だとしても、たとえ給料が良かったとしても、3年過ぎてさらにお金が貯まったら仕事を辞めると。

(18)の手帳の続きをしたかったから。
 
だから、自炊もして色々と節約をして一人暮らしでもたくさん貯金して、おしゃれも旅も好きだからそこは妥協しないで無駄なものを買わないようにして過ごした。

予定通りにお金も貯まったし、3年以上ちゃんと仕事もしたから、私はあっさりと辞めますと上司に言った。
そんな雰囲気を1ミリも出してなかったから上司はビックリしていた。
仕事もちゃんとしてたし、これからあんなこと任せようとか思っていたのにとか言って引き留めていたが、
そんなのは知らない。
引き留めるのだって新しい人を雇ったり育てたりするコストの事とかあるから、私が絶対に必要という訳じゃないことぐらいわかっている。
ちゃんと仕事はしていたけど優秀なわけではなかったし。
だから私自身も勘違いしなかった。

私が辞めると決めたなら辞める。

退職した翌日に実家に引っ越し、その翌日に旅の支度をして、3日後の早朝に東南アジアにバックパックを担いで家を出た。

はじめての一人でのバックパッカー

ひとりでのバックパッカーはこれがはじめて。
英語もわからない、宿も3日間のシンガポールのホテルを予約しただけで、残りの3か月はもちろん予約なんてない。予定もざっくりと決めていたけど、予定通りにはいかないだろうと余裕をもって計画した。

予定としては、
シンガポール→マレーシア→タイ→ラオス→ベトナム→カンボジア→タイ。

この順番に東南アジアを周遊します。 

シンガポール出国してからの最初の2週間は騙されてばかりだった。
でも、だんだんと慣れてきて不安もありながら楽しめるようになった。

英語は喋れない、聞き取れない、誰かとお話ししたいなと思う事もあった。
たぶん独り言が多くなっていたと思う。。。

ひとりでお店に入ったりするのもまだまだ怖くて、毎回勇気がいるが屋台ならそんなのも少しは気にならないぐらいに気楽にご飯を買うことができた。

たまにカレーがが食べたくなってインドカレーの店に入ると、どこのお店もとても親切だった。
困っていたら色々と教えてくれるし、わからない英語も紙に書いてくれたりするし。
色んな街でカレー屋さんに行ったけど、今思えばインド以外で出会ったインド人はみんな親切な人ばかりだった。
(インドはすごい騙してくる人とすごい親切な人がいるから難しい)

1か月ぐらい経った頃にラオスの安宿のドミトリーの部屋で韓国人の旅人と出会った。
私は韓国語がそのときはもう話せるようになっていたので、やっとお店や宿、駅の人以外でまともに会話ができた。
ずっと孤独な気持ちになっていた頃。
そして、その隣のベッドには偶然日本人の子もいた。

韓国語も日本語も話せるなんてすごくうれしかった。ずっと知らない言葉の中を旅していたから。

夜は韓国人の方にご飯を誘われた。
せっかく出会えたのに翌朝その宿を出るらしい。
でも久しぶりにひとりぼっちじゃない会話が弾むご飯が食べれた。

そしてそれ以降の私の旅はかわった。
はじめて会った旅人に声を掛けれるようになった。
ひとりで旅をしているので一緒にご飯食べに行きませんか?
さっきこの街に着いたのでよくわからないので一緒にご飯食べに行きませんか?


旅人はこんな感じで自然とご飯を誘ったり誘われたりするようになっていく。
私も色んな人に声を掛けれるようになった。


東南アジアを旅する目的のひとつにベトナムとカンボジアでの戦争の事を知りたかったのもある。
自分にとって生きること、死ぬことがなんなのか考えるのがひとつの目的だったから。
だから、ベトナムとカンボジアは特にじっくりと旅をした。

そんな感じであっという間に3か月が過ぎて、一旦日本に帰国して数日後には英語を学びにカナダに行くことになります。

英語圏での生活

私が英語を勉強するために選んだ街。
カナダのトロント。
都会であって自然もあり、湖も綺麗な大好きな街。


私は韓国語を学ぶのに1年間韓国のソウルに住んでいたのに、思ったほど話せるようにならなかったのですが、それは私が韓国語を話すのが恥ずかしくて消極的だったから。
だから、次はそんな失敗はしないようにと心に決めていた。

最初の2か月だけホームステイをしていたのだけど、シェアメイトに日本人や他の国の方もいて国際交流もできて楽しかった。でも、ホストファミリーに話しかけるのは恥ずかしいし、私が他のシェアメイトよりも後に来たので会話に入れない。。。
みんながわいわいしゃべりながら食べてるご飯の時も私はいつも黙って食事をしていた。

やっぱりみんな英語がうまくなりたいから積極的。
私はそんな人たちに遠慮してるのもあるし、来たばかりでどうしたらいいかわからない。

今でも覚えている。

トロントに来て1週間ぐらい経ったある日の夕食の時。
はじめてホストマザーに言った一言。

『I like bananas.』
 
ホントはそこまで好きなわけじゃない。
でも、今言える確実に間違わないことがそれだったから、チャンスをみて言った。

その一言でホストマザーはめちゃくちゃ喜んだ。

『うるかがしゃべった! I like bananas.って言った!!』
 
近くにいたホストファーザーにもすぐに大声で呼んで伝えていた。

頑張って話してくれてありがとう。
いつも黙っているから心配してたんだよ。
バナナ好きなんだね。わかったよ。

マザーはすごく優しかった。
その日以来、私は他のシェアメイトよりもバナナがひとつ多く用意されることになった。
夕食のデザートでも。朝ご飯のデザートでも。。

いつもお腹いっぱいだからと部屋に持っていくバナナ。
でも、マザーは私がバナナが好きと言った時以来、気に入ってくれるようになったし、私も少しずつ食事中にも話せるようになった。

本当にあの時勇気を振り絞って言って良かった。

実はこのホームステイ先での勇気を出して言った、
『I like bananas.』を言うまでには外で少し練習をしていた。
 
語学学校に通い始めた初日に、お昼ご飯を買うためにまだ友達がいない私は一人で学校から出て、近くにあった屋台にホットドッグを買いに行った。
 
ホットドッグ屋のおじさんに思い切って話しかけて、ホットドッグを焼いてくれてる間と立ちながら食べてる時にカタコトで英語を話すことからはじめた。
1対1なら話がゆっくりでも聞いてくれる。

おじさんは優しくて最後までちゃんと待って話を聞いてくれた。
わからない英単語も教えてくれた。

『私はホットドッグ買ってもらえてハッピー。あなたはホットドッグ食べながら英語の練習になるからハッピー。だからいつでもおいで』

おじさんは優しくそんなことを言ってくれたから、私はそれから1週間ほど通った。
単語並べるレベルだったけど。


そんなのもあって、シェアメイトの会話であふれる食事の会話の時も、一瞬のすきをみて私はバナナが好きと言えた。

最初のホームステイでは緊張と自分の英語力のなさと積極性に欠けていた。
積極的にならないとと思っていたくせに。。。


そんな感じでお昼はホットドッグが注文できるようになった。
少しずつステップアップするために色んなお店で注文してみた。

ホットドッグ注文→マクドナルドで注文→スターバックスで注文→サブウェイで注文。

段階を踏んで注文できるようになった。
サブウェイは話しながらの注文だったから個人的にはよくあるお店の中では最難関だった。

とりあえず学校が終わるとお昼ご飯を食べに行って、そのあとは夕方まで図書館で勉強をしてから帰宅。
そんな生活を過ごしていました。

最初の2~3か月ぐらいはまだまだ緊張するし消極的な部分もあった。
それでは韓国の時と同じだと思って、考え方を改めて色んな人に話しかけるようになった。
特に野球が好きでメジャーリーグをひとりで観に行った時は、周りは私と同じような野球ファンしかいなかったから自然と知らない人とでも会話ができるようになった。

『今誰が投げている?』
『今のホームラン凄かったね!』
『今日は勝ちそうだね。うれしい!』

こんなたわいもない会話が楽しかったし、自分の成長にもなった。

こうして一年が過ぎてカナダでの留学もおわり、カナダからアメリカを経由して中南米へのバックパッカーひとり旅をまた3か月ほどしてきた。
その中の数週間はメキシコの友達の家でホームステイみたいな感じで過ごさせてもらいました。

中南米での旅は危険がいっぱいあったし、ジャングルとか小さな船に乗って国境を越えたりとすごく刺激的な旅になりました。
(またこのことはいつか別で書けたらと思います。)

その後はオーストラリアに数年行くことにした。
私がしたかった仕事がそこにあったから。だから英語を勉強したのもある。
私は英語を話せるようになるという目標だとサボってしまうのはわかっていたから。
(韓国語の時がそうだったから日本に帰国してから猛勉強したり韓国人の友達作って話したりして覚えた。)

元々オーストラリアで学んで働こうと思ってた。なので、カナダは英語の基礎を一年かけてしっかりと学ぼうと思って行ったのと、カナダやアメリカや中南米を旅するにもいいからという理由が大きい。

オーストラリアでしてたことはまた機会があれば書きますが、自分が一度やってみたいと思って実際に働いてみて、それからこの仕事を続けるかどうかとか悩んだ末にやれるとこまでやって満足したし、私はこの先ずっとこの仕事を長くできない、数年後の自分には向いてないとはっきりとわかったのでもうやらないと判断しました。

時間もお金もかかったけどすっきりしたので後悔はしていない。
やってみてよかったということで満足している。
あの時やっていればよかったなんてこの先思わなくて済む。


その後は日本に帰国して日本で就職しました。

日本に帰国して病気が発覚

やりたいこともやって満足したので日本に帰国して仕事をすることにしました。

帰国して日本で働いてから数か月して、なぜか下痢に悩むことになり熱中症の症状もあったので病院に行ってみると、
急遽入院になってしまい、検査結果は潰瘍性大腸炎という難病でした。
ショックでした。。。
まだ若くてしたいことたくさんあるのに。
まさか自分がという絶望感はすごかった。

ずっと下痢で下血もあって、おなかも痛いし、40℃以上の高熱の日々が続くし、治療の注射は針がボールペンぐらい太くて痛いし、
1か月以上絶食だし。。。
生きるってこんなにも大変なんだなぁと思いました。

潰瘍性大腸炎での闘病のブログはこちらで書いてます 

潰瘍性大腸炎になってからの事をまとめています。
https://uluka-blog.com/category/uc/page/5/

うるかのトウミ

1年間は安静にするようにと言われて、入院と自宅療養をして良くなったり悪くなったりしながら過ごしました。

1年が経過してやっと仕事ができるようになっと思ったら、次は突然過呼吸で苦しくなって冷や汗と目眩と頭痛がして、もう死ぬのではないかと思って急いで救急車を呼んで病院に行き、後日パニック障害と診断されました。

これがまたずっと邪魔をして、睡眠もまともにできないし。。。。

でも、仕事があるからと無理して行ってたら、2年ぐらいしてメンタルがダウンして再び休むことに。
 
休んでから数日後、上司と話し合いの機会ができて、メンタルがやられてる時は会社の人と関わるのも良くないからしばらくは連絡をとらないことにするねと言われました。

あと気分転換に2~3週間ぐらい海外でゆっくりしてくるのもいいよと言ってくれました。
今回はおなかの体調はよかったですし、完全に気持ちの問題なのもありましたし、
気分転換に行くのもいいかなと行くことにしました。

元はといえばこの上司がパワハラ気質な人で、精神的な病は根性が足りていないとか、気持ちの問題とか、俺は間違っていない!
今までにそんな奴は俺は見たことがない!とか、自分の知ってる事だけがすべてだと思っている人。

職場の上司や先輩には結構昭和気質な人が多くて、ただ同じ会社に在籍してて昇格していっただけの人も多くいます。
他の意見を聞き入れようとしない。みんながみんなそうじゃないのはわかってる。でも、多くの人がそんな感じだった。
いい上司もいましたがそんな人はだいたい同じように苦しんだことがあったり、思いやりがとてもある人だった。

私は有休もたくさん残っていましたし、言われたように少し海外に行って現実逃避しようと思いました。
嫌な事を忘れることができたのでいい治療になりました。

復帰してからは基本的に遅刻や欠勤をすることもなく、おなかの調子も悪くなく仕事にいけています。

仕事復帰すると同じ部署に戻って働かない方がいいみたいで、私の持病の事を知らない人たちと仕事をすることになりました。

『なんであなたはトイレに行く回数が多いの?』
『その病気の事調べたけど。。。』


結局ちょっとだけ調べてくれてもどのサイトも難しいから興味なんてもたれることありません。

なので、潰瘍性大腸炎とパニック障害のことをブログで簡単に書いてみてそれを見てもらおうかと思って書く事にしました。

本来はひとり旅の話と韓国語、英語などの語学関係のブログにする予定でしたが、あまりにも理解されなくて腹が立ってきたので、
 

『とりあえず一度、うるかさんのブログで潰瘍性大腸炎とかパニック障害のこと簡単に書いてるから一度拝見してください!』

って言ってやろうと思って、病気の内容は書く事にした。

まぁ私はビビりなのでそんな事言えませんでしたが。。。

最初の思いだけは本心なので行動には一応うつせました。

私がブログを始めようと思ったきっかけ。↓
https://ameblo.jp/uluka960/entry-12729442465.html

アメブロ うるかの日常

なので、潰瘍性大腸炎やパニック障害のことは専門家でもないので、私の経験したことを簡単にまとめてりして、
わからない人でもざっくりとわかるぐらい簡単なものにしようと思いました。

もっと深く知りたいなら他にもっと詳しくブログを書いている方もいますし、病院のホームページなどで調べてください。
まったく病気の事を理解していない家族や知り合いに向けた感じにしてます。


かなりざっくりと書かせてもらいましたが、こんな感じで今の自分がいるという事です。
また、それぞれの細かいことやまだまだたくさん経験した事があるので、そのあたりはまたいつか書きたいと思います。
 
ちなみに (18)の手帳に書いていたことは全部達成しました。

語学力に関しては自分が判断するところではないので、特に不自由なく現地で生活できるということでオッケーにします。

40歳までまだ数年ありますが、47都道府県と西国33か所の御朱印巡りは予定よりも大幅にはやく達成できましたし、
お寺の御朱印は自分の目的は達成したのでとりあえずは今はもらわないようにしています。
今は自分が気に入ったところだけ、神社を中心に御朱印をもらうようにしてます。

今は60歳の時までにもうひとつ違う言語がしゃべれるようになれたらな、とか
世界で最も影響力のある20都市に全部行ってみたいとかそんなざっくりした目標はあります。

小さな目標も作ってますので、色々とやりながら残りの人生楽しんで行けたらと思っています。

とりあえず(18)の手帳に書いたことは全部できたので一旦満足しましたし、死ぬ間際にあれをやっておけばよかったと思い残すこともないです。

今あるやりたいことはあの手帳に書いたあとの大人になってからやりたいと思った事だから、それはひとつの欲が大きくなっただけと思っています。


ちなみにブログの名前の

『うるかのトウミ』トウミ意味は韓国語で手助けという意味です。

なにか少しでも手助けになってたらいいなという思いがあります。

幸せの形は人それぞれ 
https://uluka-blog.com/shape-of-happiness/
同じ旅行好きでも2つの異なるタイプ 
https://uluka-blog.com/tourist-or-traveler/

うるかのトウミ

アメブロ『うるかの日常』は、
毎日夜18:50に更新してます。

日々の事を日記感覚で書いています。
こちらもぜひ見に来てください
https://ameblo.jp/uluka960/

アメブロ うるかの日常

ここまでお読みくださりありがとうございました。